デビュー時、眉の形整える
オードリーの息子や担当メイキャップアーチストの息子、そしてワイラーの娘がそれぞれ証言するという構成。親という存在、仕事や夫婦のことなどを子供にぺらぺらしゃべったりしないもの。そのため、子供といえど案外、知っていることは少ない感じもするのだが、オードリーにワイラーという大物中の大物、資料もたくさん残していたのだろう。
最初の登場してきた男性メイキャッパーの息子。オードリーがデビューに当たって、眉毛の形を変えたことを明らかにする。男一般だとその変化に気づくのは難しいだろうが、目尻に向かって細く整えられた眉は,表情を柔らかくし、女らしく見える。
赤狩りで追放の脚本家起用
赤狩りの嵐が吹き荒れたハリウッドで、自分の意志を貫いたワイラーの話も興味深かった。遠い記憶でワイラーが赤狩りに反対していたことは知っていたが、ローマの休日の脚本に、ハリウッドを追放されたドルトン・トランボを起用。偽名で脚本を書かせ、「資金が出なくなる」とそのことを隠していた。トランボといえば、それから20数年後、自らの反戦小説「ジョニーは戦場に行った」を映画化し、カンヌ映画祭で審査員特別グランプリを受賞するなど、反骨の映画人。第2次世界大戦が終わってまだ7年、ローマの休日は単なる王女様と新聞記者の恋愛おとぎ話ではなく、平和への期待を込めた作品だったことをあらためて知った。
映画から20年後に見てもまぶしいローマ
もっとも作品を初めて見た1970年ごろ、すでに日本が高度経済成長期に入り、東京五輪、大阪万博も開かれていたというのに、終戦からそれほど時間がたっていないローマは美しく、スペイン階段でのジェラート、サンタンジェロ城近くのダンスパーティー、グレゴリーペックが住むアパートなどみんなまぶしかった。
トレビの泉前のシーンでペックがカメラを無理矢理借りようとする女の子が、ワイラーの娘で、75歳になった彼女が父親の話をするのも面白かった。
ローマで子育て ビキニで遊ぶ姿も
最後はオードリーの2番目の息子の話。1967年の「暗くなるまで待って」を最後に突如、映画への出演をやめ、1976年、ショーン・コネリーと共演した歴史映画「ロビンとマリアン」まで空白の期間を過ごすことになる。
この間,彼女は離婚、再婚、さらには2人目の子を出産。ローマで普通の家族のように暮らしたという。パパラッチとけんかばかりしていたと1970年生まれの息子は証言する。「今となっては、いろんな写真が残っていてありがたい」とも話す。このときの映像として、ビキニ姿でヨット遊びをする姿が映し出された。肌を大きく露出したセクシーなシーンなぞまったく思い浮かばない彼女だけに、この姿が後悔されたのは驚きでもある。
晩年はアフリカの支援活動に取り組み、ユニセフの親善大使にもなる。1993年、がんのため死去。まだ63歳だった。やはり美人薄命なのか。
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